もう1つ、異時点間代替効果に異質性を生じさせる要因として有名なものが、予備的貯蓄と呼ばれるものです。これは、将来のマクロ経済や個人の所得に関する不確実性が存在する場合に、家計がそれに備えて貯蓄を行うというもので、この場合、流動性制約に陥っていなくても、家計の消費を抑える方向に作用します。例えば阿部[2011]では、予備的貯蓄を通じて、経済的な不確実性が家計の消費の下押し圧力となることを、理論的なモデルを用いてわかりやすく解説していますが、実証分析でも、例えばベルギー、ドイツ、スペイン、フランス、イタリア、オランダのユーロ圏6か国について研究したCoibion et al.[2024]が、マクロ経済に関する不確実性が高まると、景気変動などの影響を受けやすい産業(論文では製造業、建設業、輸送業、飲食業、宿泊業、娯楽産業などを挙げています)に従事する者などの消費がより大きく低下することを示しています。さらに論文では、この際に、趣味・娯楽・外食への支出などの裁量的支出が特に大きく減るという結果も報告しています。
このことが異時点間代替効果にどのような影響を及ぼすのかというと、こうした家計の場合、先々予定する消費計画は、通常の家計と比べて控えめにしていると考えられるため、例えば実質金利の引き下げに対しては、(将来予定している消費を現在に回すことによって生じる)消費の増加は通常の家計と比べて小さくなると考えられ、実質金利が引き上げられる場合も、今度は現時点で裁量的支出を減らしていることが影響し、貯蓄に回す金額はそれほど大きくはならないといえます。
実証分析でも、所得・資産が多い家計や株式を保有する家計では、異時点間代替効果が強くあらわれると指摘する研究(Blundell,Browning, and Meghir[1994]、Attanasio,Banks, and Tanner[2002]、Guvenen[2006]、Attanasio and Weber[2010]、Grigoli and Sandri[2022])があり、さらにGrigoli and Sandri[2022]では、裁量的支出が特に影響を受けると指摘しています。また、このことの理論的な説明として、海外の論文に載っていたものではありますが、2期間モデルを用いた説明を整理しましたので、興味があればご一読ください(「予備的貯蓄と異時点間代替効果・限界消費性向(PDF、643KB)」、限界消費性向という別の項目の説明もしていますが、これは後々使おうと思っているものなので、今は関係ありません)。
因みに、予備的貯蓄を引き起こす要因としては、所得や雇用に関する不確実性に加えて、退職後の年金や資産収入に関する不確実性が影響することも知られており、前者については例えば村田[2003]が、後者についてはBeaudry,Kartashova, and Meh[2023]の研究があります。
さて、ここで改めて流動性制約や予備的貯蓄というものを考えてみると、これらの影響が強く出るような家計としては、所得や資産が少ない家計であろうと想像することができます。これはつまり、異時点間代替効果は所得や資産が多い家計ほど強く効くということになり、仮に実際に計測される結果がこのことで説明することができれば、ここまでで説明を終えることもできるかもしれません(実際にはデータへのあてはまりの程度などの検証もあるでしょうが)。ただ、実際の計測結果には全く異なる結果を示すものもあり、例えばフランス、ドイツ、イタリア、スペインについて分析したSlacalek,Tristani, and Violante[2020]という研究では、保有する純資産が多い家計が(それこそ上位1割に入るような家計でさえも)、他の家計と比べて、政策金利の引き下げによる消費の押し上げ効果が小さくなるという結果を報告しています。さらに、以前の投稿(「所得や資産の違いを分析に取り込む:Heterogeneous Agent New Keynesian (HANK) Model (2024/07/12)」)で紹介したKaplan,Moll, and Violante[2018]では、RANKモデルを用いた分析では金融政策の波及効果は異時点間代替効果でほぼ全て説明するのに対し、HANKモデルを用いた場合、異時点間代替効果の寄与は1/3以下に落ち込むと指摘していましたし、同じくHANKモデルや、年代間の経済的な異質性を考慮した世代重複モデルにニューケインジアン型の価格硬直性を組み込んだモデルを用いたより最近のAuclert,Rognlie, and Straub[2020]やBaek[2023]といった研究でも、所得や資産への波及効果を通じた、金融政策の家計消費への波及効果の重要性を指摘しています。
こうしたことを踏まえると、やはり先程と同じ以前の投稿(「所得や資産の違いを分析に取り込む:Heterogeneous Agent New Keynesian (HANK) Model (2024/07/12)」)で紹介した、Auclert[2019]が指摘する②や③のメカニズムも見ていく必要があると考えられます。
Attanasio, Orazio P.,James Banks, and Sarah Tanner(2002).”Asset Holding and Consumption Volatility.”Journal of Political Economy,110(4):771-792.
Attanasio, Orazio P., and Guglielmo Weber(2010).”Consumption and Saving: Models of Intertemporal Allocation and Their Implications for Public Policy.” Journal of Economic Literature,48(3): 693-751.
Auclert, Adrien(2019). “Monetary Policy and the Redistribution Channel.” American Economic Review, 109 (6): 2333–2367.
Auclert, Adrien, Matthew Rognlie, and Ludwig Straub(2020).”Micro Jumps, Macro Humps: Monetary Policy and Business Cycles in an Estimated HANK Model.”NBER Working Paper No.26647.
Baek, Seungjun(2023).”The Redistributive Effects of Monetary Policy in an Overlapping Generations Model.”European Economic Review,155,104433.
Beaudry,Paul,Katya Kartashova, and Césaire Meh(2023).”Gazing at r-star: A Hysteresis Perspective.” Staff Working Papers 23-5, Bank of Canada.
Blundell, Richard, Martin Browning, and Costas Meghir(1994).”Consumer Demand and the Life-Cycle Allocation of Household Expenditures,”The Review of Economic Studies,61(1):57–80.
Coibion, Olivier, Dimitris Georgarakos, Yuriy Gorodnichenko, Geoff Kenny, and Michael Weber(2024).”The Effect of Macroeconomic Uncertainty on Household Spending.” American Economic Review, 114 (3): 645–677.
Grigoli,Francesco, and Damiano Sandri(2022).”Monetary Policy and Credit Card Spending.”IMF Working Paper No. 2022/255.
Guvenen, Fatih(2006).”Reconciling Conflicting Evidence on the Elasticity of Intertemporal Substitution: A Macroeconomic Perspective.”Journal of Monetary Economics,53(7):1451-1472.
Kaplan, Greg, Benjamin Moll, and Giovanni L. Violante(2018).”Monetary Policy According to HANK.” American Economic Review, 108 (3): 697–743.
Slacalek, Jiri, Oreste Tristani, and Giovanni L. Violante(2020).”Household Balance Sheet Channels of Monetary Policy: A Back of the Envelope Calculation for the Euro Area.”Journal of Economic Dynamics and Control,115,103879.
阿部修人(2011)、『家計消費の経済分析』、一橋大学経済研究叢書、岩波書店
村田啓子(2003)、「ミクロ・データによる家計行動分析:将来不安と予備的貯蓄」、『金融研究』第22巻第3号、日本銀行金融研究所
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