伝統的なマクロ経済学では、経済主体の期待形成は完全情報のもとで合理的に行われることを基本的に仮定していますが、最近では、こうした合理性が限定的であるとする、限定合理性を仮定した分析も増えてきています。限定合理性の言葉の意味を調べてみると、人間の認知能力(計算能力・情報収集能力)には限界があるが故に、その合理性はあくまで限定的なものであるということだそうです(渡部(2020))。
このことを実際にモデル化したGabaix(2014)をみてみると、ここでは経済主体が世の中の様々なものの価格の認識を、現時点の実際の価格とその財・サービスの長期的な平均価格の加重平均で決めるとしており、経済主体の注意の割り当てが大きい財・サービスでは、現時点の価格のウエイトが大きくなり、一方で仮に家計が全く注意を払わない財やサービスでは、長期的な平均価格が経済主体の認識となるとしています。
他のモデルをみてみると、経済主体が保有する情報が即座には変更されないとする粘着情報仮説や、保有する情報にノイズが含まれているとするノイズ情報仮説、これと同系統の異なる仮説で、経済主体が限られた情報処理能力を自身に有用な情報へと割り当てるとする合理的無関心仮説が用いられているほか、経済主体は先験的には真の経済の変動法則を知らないと仮定し、現実の経済データを観察することにより経済の変動法則を経験的に学習(精緻化)していくとする、適応的学習仮説もあります。
実証分析をみてみると、Hori and Kawagoe(2013)では、家計のインフレ予想の形成メカニズムとして、完全情報下の合理的期待形成仮説よりも粘着情報仮説の方がよくあてはまることを、日本の分析から示しています。Cornand and Hubert(2022)でも、米国の家計、企業、専門家のインフレ予想を分析し、家計は他の経済主体と比べて予想修正の頻度が少ないと指摘しています。企業についても宇野・永沼・原(2017)では、日本企業の分析から、大企業のインフレ予想の改定頻度が中小企業に比べて低く、一方で標準偏差(ばらつき)は小さくなることから、大企業では予想改定に大きなコストを払っていることが原因となっている可能性があると指摘し、このことが粘着情報仮説に適合すると指摘してるほか、Andrade et al.(2022)では、フランス企業の分析から、自身の産業固有のショックがインフレ予想の形成に影響を及ぼすことを示しています。家計や企業のインフレ予想の形成についてはいろいろな研究があるので、それは改めて整理したいと思います。
Mackowiak and Widerholt(2024)では、リアル・ビジネス・サイクルモデルに企業や家計の合理的無関心を加えた分析を行っています。リアル・ビジネス・サイクルモデルは、代表的な家計の最適な消費行動をモデル化したラムゼイモデル(ただし、労働供給は外生的に与えている)に、技術に生じるショックや政府支出のショックを加えてマクロ変数の変動を考慮できるようにしたもの(雇用についても、労働供給と労働需要の相互作用で決まるよう変更している)です(例えばローマ―(2010)や二神・堀(2017)を参照)。論文では、これに合理的無関心を加えることで、データへのあてはまりが大きく改善することを示しています。Afrouzi,Flynn and Yang(2024)では、時間依存型の価格調整モデルを用いたニューケインジアンモデルに、企業の合理的無関心により、価格改定に必要な情報を不完全にしか集めることができないと仮定することで、マクロレベルの価格の硬直性がより大きくなり、貨幣の非中立性が大きくなることを示しています。
因みに、企業が完全情報にもとづいて合理的に価格設定を行う通常の状況下の価格の硬直性についても、個別の財やサービスの価格の硬直性の違いを考慮してモデルを作った場合に、マクロの価格の硬直性が高まることが示されています(例えば、時間依存型の価格調整モデルを用いたCarvalho(2006)やCarvalho and Schwartzman(2015))が、こうした要素を考慮することで、さらにマクロの硬直性が増幅される可能性があります。また、Alvarez, Lippi, and Paciello (2011, 2016)やBonomo et al.(2023)では、企業が価格改定のための情報収集をするのにコストがかかるとするモデルを用いて、やはり貨幣の非中立性が増幅されることを示しています。
適応的学習仮説を用いた研究としては、例えばChristiano,Eichenbaum, and Johannsen[2024]では、家計が自身の期待形成を織り込んで、それが実現する方向に(自己実現的に)行動すると仮定し、そうした家計が適応的学習仮説に従って期待形成を行う場合について分析しています。この場合、家計は学習を通して段階的にインフレ予想を変更するため、その影響から実際のインフレ率もゆっくりとしか変動しない(少なくとも完全情報下の合理的期待形成仮説の場合よりも遅くなる)ことや、この現象がゼロ金利制約下(およびその近傍)で観察されることを指摘しています。また、適応的学習仮説の下では、財政政策やフォワードガイダンス政策の効果が、完全情報下の合理的期待形成仮説を仮定した場合と比べて低下する可能性があることも示しているほか、ハイパーインフレーション下の貨幣需要(Cagan(1956)、Sargent and Marcet(1995))の現象でも、このメカニズムが働いている可能性があることも指摘しています。
近年ではニューケインジアンモデルの改良という観点から、Christiano,Eichenbaum, and Trabandt(2016)が企業と労働者が賃金について交渉するメカニズムをニューケインジアンモデルに組み込んだ分析を行っているほか、Del Negro,Giannoni, and Patterson(2015)やMcKay,Nakamura, and Steinsson(2016)では、標準的なニューケインジアンモデルを用いると、中央銀行のフォワードガイダンスが強く推計されすぎてしまう(これは、フォワードガイダンスパズルと呼ばれています)と指摘していますが、この研究をみると、一連のモデル改良の取組に、こうした期待形成のメカニズムの検討が、大きく貢献しうることが伺えます。
さらに、より個人の行動などに着目した研究も行われています。D’Acunto et al.(2021)では、中央銀行による政策金利の変更が家計の借入や消費行動に及ぼす影響をフィンランドについて分析しています。この中では、いわゆる認知能力(計算能力・情報収集能力)が高い家計は、中央銀行の政策金利の変更に対して、経済理論が示す通りの行動を行うのに対し、低い家計ではそうはならないことが指摘されています。こうした研究は結構行われており、例えば金融政策ではないのですが、自動車購入の補助金政策に対する消費反応について調べたD’Acunto et al.(2023)では、手続きの煩雑さなどにより、認知能力の低い家計の消費反応が低くなると指摘しており、金融行動の判断について分析した研究でも、数学的な能力が高い程ミスが少なくなると指摘したAgarwal and Mazumder(2013)や、高齢者は自身の認知能力の低下を過小評価する傾向があり、また株式投資などを通じた金融損失が大きくなる傾向があることを指摘したMazzonna and Peracchi(2024)などがあります。またより古くは、所得や経済の成長に対する学校教育の重要性について発展途上国も含めた国際比較を行って分析したHanushek and Woessmann(2008)でも、認知能力の高さと所得や経済の成長との関連性がみられると指摘しています。
他にも、Dräger,Lamla, and Pfajfar(2022)ではドイツについて分析し、将来低金利・低インフレになることを好む家計では、インフレ予想が高くなる傾向にあることを示しているほか、同じインフレ予想を持つ家計でも、将来のインフレ率の水準に対する選好にばらつきがあり、一方はインフレ予想を好ましく思っているのに対して、もう一方はそれを好ましく思っていないということがあることも示しています。最後の点については、金融政策の捉え方でもみられており、中央銀行の金融政策のスタンスとして同じ認識を持っている家計同士でも、一方はそれを好ましく思っているが、もう一方はそう思っていないことがあると指摘しています。また、将来低金利を選好する家計ほど、異時点間の代替効果による耐久財の消費の増加が大きくなることも示しています。
先ほど少し出てきたフォワードガイダンスパズルなどについて研究した論文もあります。Gabaix(2020)では、経済主体が近視眼的であるという修正をニューケインジアンモデルに施した分析を行っています。この場合には、遠い将来の経済環境の重要性は小さくなることから、フォワードガイダンス政策の効果は、完全情報下の合理的な期待形成を仮定した場合と比べて小さくなることが示されています。一方で財政政策の効果については、通常の合理的な経済主体が、減税に対してリカーディアン的に考えて、将来の増税を予想してしまい、消費を増やさないのに対し、このモデルでは、経済主体が近視眼的であるため、消費を増やすという結果が得られています。そのため、ゼロ金利制約下の政策についてのインプリケーションとして、通常のモデルでは財政政策の効果は薄く、フォワードガイダンス政策の効果は大きいという結果となるのに対して、経済主体の近視眼性を仮定した論文のモデルでは、逆にフォワードガイダンス政策の効果は弱まり、むしろ財政政策の効果が強まって、より重要となるという結果が得られたとしています。
さて、ここまでいろいろ見てきましたが、大元の話は限界消費性向のデータへのあてはまりということで、次回はこのことを、特に後半部分で出てきた考え方に基づいて研究した論文を少し整理したいと思います。
Agarwal, Sumit, and Bhashkar Mazumder(2013).”Cognitive Abilities and Household Financial Decision Making.”American Economic Journal: Applied Economics,5(1),193–207.
Alvarez, Fernando E., Francesco Lippi, and Luigi Paciello(2011).”Optimal Price Setting With Observation and Menu Costs.”Quarterly Journal of Economics,126(4),1909–1960.
Alvarez, Fernando E., Francesco Lippi, and Luigi Paciello(2016).”Monetary Shocks in Models with Inattentive Producers.”Review of Economic Studies,83(2),421–459.
Andrade, Philippe, Olivier Coibion, Erwan Gautier, and Yuriy Gorodnichenko(2022).”No Firm is an Island? How Industry Conditions Shape Firms’ Expectations.” Journal of Monetary Economics,125,40-56.
Bonomo, Marco, Carlos Carvalho, René Garcia, Vivian Malta, and Rodolfo Rigato(2023).”Persistent Monetary Non-neutrality in an Estimated Menu Cost Model with Partially Costly Information.” American Economic Journal: Macroeconomics,15 (2),466–505.
Cagan,Phillip(1956).”The Monetary Dynamics of Hyperinflation.”in Milton Friedman ed., Studies in the Quantity Theory of Money,Univercity of Chicago Press.
Carvalho, Carlos(2006).”Heterogeneity in Price Stickiness and the Real Effects of Monetary Shocks” Contributions in Macroeconomics,6(1).
Carvalho, Carlos, and Felipe Schwartzman(2015).”Selection and Monetary Non-neutrality in Time-dependent Pricing Models.”Journal of Monetary Economics,76,141-156.
Christiano, Lawrence J., Martin S. Eichenbaum, and Mathias Trabandt(2016).”Unemployment and Business Cycles.”Econometrica,84(4),1523-1569.
Christiano, Lawrence, Martin S. Eichenbaum, and Benjamin K. Johannsen(2024).” Slow Learning.”NBER Working Paper No.32358.
Cornand, Camille,and Paul Hubert(2022).”Information Frictions across Various Types of Inflation Expectations.”European Economic Review,146,104175.
D’Acunto, Francesco,Daniel Hoang,Maritta Paloviita, and Michael Weber(2023).”Cognitive Constraints and Economic Incentives.”Bank of Finland Research Discussion Papers 9.
Del Negro, Marco, Marc Giannoni, and Christina Patterson(2015).”The Forward Guidance Puzzle.” Federal Reserve Bank of New York Staff Reports No.574.
Dräger, Lena, Michael J. Lamla, and Damjan Pfajfar(2022).”The Hidden Heterogeneity of Inflation and Interest Rate Expectations: The Role of Preferences.” CESifo Working Paper Series No.9637.
Gabaix, Xavier(2014).”A Sparsity-Based Model of Bounded Rationality.”Quarterly Journal of Economics,129(4),1661–1710.
Gabaix, Xavier(2020).”A Behavioral New Keynesian Model.” American Economic Review, 110(8),2271–2327.
Hanushek, Eric A., and Ludger Woessmann(2008).”The Role of Cognitive Skills in Economic Development.” Journal of Economic Literature,46(3),607–668.
Hori, Masahiro, and Masaaki Kawagoe(2013).”Inflation Expectations of Japanese Households: Micro Evidence from a Consumer Confidence Survey.”Hitotsubashi Journal of Economics,54(1),17-38.
Maćkowiak, Bartosz, and Mirko Wiederholt(2024).”Rational Inattention and the Business Cycle Effects of Productivity and News Shocks.”American Economic Journal: Macroeconomics (Forthcoming).
Mazzonna, Fabrizio, and Franco Peracchi(2024).”Are Older People Aware of Their Cognitive Decline? Misperception and Financial Decision-Making.”Journal of Political Economy,132(6),1793-1830.
McKay, Alisdair, Emi Nakamura, and Jón Steinsson(2016).”The Power of Forward Guidance Revisited.”American Economic Review,106 (10),3133–3158.
Sargent,Thomas, and Albert Marcet(1995).”Speed of Convergence of Recursive Least Squares Learning with ARMA Perceptions.”in Alan Kirman, and Mark Salmon eds.,Learning and Rationality in Economics, Basil Blackwell.
宇野洋輔・永沼早央梨・原尚子(2017)、「企業のインフレ予想形成に関する新事実:Part I ―粘着情報モデル再考―」、日本銀行ワーキングペーパーシリーズNo.17-J-3
二神孝一・堀敬一(2017)、「マクロ経済学 第2版」、有斐閣
渡部直樹(2020)、「限定合理性-その進化と哲学的意義-」、『三田商学研究』第63巻第4号、19-33頁
デビッドローマー(堀雅博・岩成博夫・南條隆 訳)(2010)、「上級マクロ経済学 原著第3版」、日本評論社
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