面白いなと思ったのでもう1つ、ナラティブとマクロ経済のことについて書きたいと思います。こうしたことは、古くはジョン・メイナード・ケインズが1936年の著書「雇用,利子および貨幣の一般理論」の中で、人々の本能的なアニマル・スピリットがいかに経済の暴落と回復を引き起こしたのかについて書いていますが、最近ではシラー(2021)などが話題となっているかと思います。ただ、ナラティブについて研究した経済学の論文について整理したRoos and Reccius(2024)によると、Web of Scienceのデータベースのeconomicsのカテゴリで、論文のタイトルにナラティブが含まれるものを1967年~2022年まで整理したところ、マクロ経済学に関する文献は、約1%にとどまっているそうです。
一方で、「バイブセッション(Vibecession:これは造語で、vibeは雰囲気、cessionは不況を意味している)」、つまり経済パフォーマンスの低下を引き起こす可能性のある否定的な感情のエピソードについての発言がちらほらみられているほか(Scanlon(2022a,b)、Keynes(2023))、Fedでも注目されています(Federal Open Market Committee(2024))。日本でも、早川(2024)の中で、「考えてみると、経済学では経済厚生を規定するのは実質所得(実質消費)だと想定しているのだから、名目値である賃金と物価で好循環が働くというのは、やや不思議な話である」とし、「そこには、「日本経済の長期低迷の原因はデフレにある」というナラティブが長期にわたって流布したことが影響しているのだろう。」と述べています。
因みに、早川(2024)では、日本経済の長期低迷はデフレの所為というナラティブが生まれたことは、デフレが始まった1990年代後半からグローバル金融危機にかけて、米国を中心としてニューケインジアン経済学がマクロ経済学会で支配的であったことも影響していた可能性があるとしているほか、その後、デフレやほかにもグローバル金融危機の後遺症、人口減少・高齢化などを原因とした、長期停滞論が登場してきたと説明しています。
さらに、分析手法という観点でみますと、ナラティブ研究の分野については、潜在ディリクレ配分法(Latent Dirichlet Allocation:LDA)という、トピックを抽出する手法などが提示されているものの、十分といえる方法は未だ確立されておらず、現在も模索が続けられている状況といえます。
ここで、いくつかマクロ経済に関する研究を紹介しますと、Borup et al.(2023)では、新型コロナウイルス感染症下の米国経済の分析を行っており、ここでは、投資家へのデイリーサーベイの自由回答式アンケート結果を用いて、LDAによるトピック抽出を行い、これとマクロ金融変数からなる大規模なVAR分析を行って、ナラティブとマクロ経済が双方向の関係を示すという結果を得ています。
Flynn and Sastry(2024)では、やはり米国について、上場企業が行政機関に提出する収益などに関する資料や電話会議のテキスト情報を用い、データから対象の感情を推測するセンチメント分析や、シラー(2021)が米国の歴史に特に影響力があると特定した永続的な経済ナラティブとのつながりを調べるための類似性分析、そしてLDAを駆使して分析をしています。分析では、楽観的なシナリオを持つ企業は採用や設備投資を拡大する傾向にあり、また、将来的に収益性が高まるとは考えていないにもかかわらず、投資家に対して過度に楽観的な予想を提示する傾向(これは、ケインズの指摘するアニマル・スピリットの特徴)があるとしているほか、企業は国もしくは業界内で他社が抱いている物語を採用する傾向がある(例えば、同じ業界の大企業が抱く先行きの見通しを、他の会社も採用する等)ことを示しています。
また論文では、ナラティブが米国の1995年以降の景気循環の約20%を説明すると推計し、特に2001年の不況の約32%、グローバル金融危機の約18%を説明できるとしており、楽観主義のナラティブが90年代のドットコムバブルと2000年代の住宅バブルを煽り、崩壊と絶望のナラティブが、それぞれのその後の危機を引き起こす一因となったとしています。さらに、ナラティブは全てがバイラル(爆発的に共有されて、時に世界全体に広がる)になるわけではなく、他のナラティブや経済イベントに大きく影響を受けることも示しています。
もう1つ、Andre et al.(2022)では、2021年に米国の家計や経済の専門家にインフレの急上昇の要因や、インフレ予想の調査を行い、因果推論のグラフィカルモデルである有向非巡回グラフ(Directed Acyclic Graph:DAG)を用いて両者の因果関係を分析しています。調査からは、経済の専門家と家計の間でインフレ急上昇の要因が異なる(一般に家計は専門家に比べてシンプルであったり、”企業の強欲さ”といった専門家は挙げないことを要因にすることもある)ことや、インフレ予想にも異質性がみられ、両者の間に因果関係がみられることが指摘されています。また、家計の中でも、考えているインフレの要因が異なると、インフレ予想が異なる傾向があるとし、例えばエネルギー危機や政府支出の増加を理由としている家計ではインフレ予想は高くなり、一方で新型コロナ感染症下の強制貯蓄によるペントアップ需要を理由に挙げている家計ではインフレ予想は低くなるとしているほか、家計は新しい情報を自身のナラティブに従う形で解釈する傾向があり、例えば政府支出が将来増えそうだという情報が追加された場合、元々政府支出のナラティブに従っている家計ではインフレ予想を引き上げるが、他の家計はそうはならないとしています。また、インフレに関するニュース情報が家計のインフレ予想を引き上げることも示しています。論文ではこうした分析から、インフレの動きを説明するために各個人がどのようなナラティブを思い描いているのかは、中央銀行がインフレ予想をアンカーさせる上で重要な要素となる可能性があるとしています。さらに、Macaulay and Song(2023)では、同じ時期の米国のインフレに関するニュースとXのデータをリンクさせて分析を行い、この時期にメディアがインフレと実体経済の関連性を強調するように姿勢をシフトしたことが、消費者心理を引き下げた可能性があると指摘しています。
因みに、Graeber,Roth, and Zimmermann(2024)では、人間の信念に及ぼす影響はデータよりも逸話的な情報の方がより大きくなることや、経済指標などの統計情報について説明する場合にも、関連する逸話的な情報を加えることでより説得力が増すことを、経済実験を通して示しています。
Andre, Peter, Ingar Haaland, Christopher Roth, and Johannes Wohlfart(2022).” Narratives about the Macroeconomy.”CEBI Working Paper 18/21.
Borup, Daniel, Jorge Wolfgang Hansen, Benjamin Dybro Liengaard, and Erik Christian Montes Schütte(2023).”Quantifying Investor Narratives and their Role during COVID-19.”Journal of Applied Econometrics,38(4),512-532.
Federal Open Market Committee(2024).”Transcript of Press Conference.”31 January.
Flynn, Joel P., and Karthik Sastry(2024).”The Macroeconomics of Narratives.”NBER Working Paper No.32602.
Graeber, Thomas, Christopher Roth, and Florian Zimmermann(2024).”Stories, Statistics, and Memory.”Quarterly Journal of Economics,forthcoming.
Keynes, Soumaya(2023).”Are Bad Vibes Holding Back the British Economy?”Financial Times,28 July.
Macaulay, Alistair, and Wenting Song(2023).”News Media, Inflation, and Sentiment.”AEA Papers and Proceedings,113,172–76.
Roos, Michael,and Matthias Reccius(2024).”Narratives in Economics.”Journal of Economic Surveys,38(2),303-341.
Scanlon, Kyla(2022a).”The Vibecession: The Self-Fulfilling Prophecy.”30 June.
Scanlon, Kyla(2022b).”The Vibes in the Economy are…Weird. Really Weird.”New York Times,4 August.
早川英男(2024)、「2つの「好循環」を考える ―求められるナラティヴの見直し―」、東京財団政策研究所、5月28日
シラー・ロバート・J(山形浩生 訳)(2021)、「ナラティブ経済学: 経済予測の全く新しい考え方」、東洋経済新報社
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