資産や負債の価値の変化を通じた金融政策の波及チャネルとしてAuclert(2019)であげられている他のものに、フィッシャー・チャネルがあります。これは金融政策によって予期せぬインフレやデフレが起きた場合、金融資産や負債の実質的な価値が変化することが、家計の消費に影響を及ぼすというものです。例えば予期せぬインフレが生じる場合を考えてみると、金融資産の実質的な価値はその分目減りする一方で、負債の実質価値も低下することになります。因みに、物価水準に連動して名目の価値が変動するような金融資産ではこの効果はみられず、あくまで効果はこうした変動がない、いわゆる名目資産や名目負債に対するものとなります。
個別の家計にどのような影響が出るのかということについては、例えば米国の家計について分析したDoepke and Schneider(2006)では、富裕層や高齢層では名目利付債などの金融資産が多くなる一方で、負債は少ない傾向があるのに対し、中間層や若年層では、名目資産が少なく、住宅ローンのような名目負債が多くなる傾向にあることから、予期せぬインフレが生じる場合、前者ではネットの効果は消費にマイナスに働き、後者ではプラスに働くことを示しています。Wolf(2023)でも、1983年から2019年の米国(この間、米国は緩やかなインフレ基調と考えられます)について分析し、資産格差が縮小したとしているほか(因みに格差は実質でみています)、中間層へのプラスの効果がこのことに特に大きく寄与したと指摘しています。Meh and Terajima(2011)でも、カナダの家計の分析から、同様の結果を得ています。また、Adam and Zhu(2016)では、ユーロ圏の家計について、予期せぬデフレが起こった時について分析し、これとは逆の結果が得られることを示しています。
Schnorpfeil,Weber, and Hackethal(2024)では、ドイツの家計に対して経済実験を行い、家計は名目資産のフィッシャー効果についてはよく認識する一方で、名目負債のフィッシャー効果はほとんど認識していないと指摘しています。また、名目負債のフィッシャー効果を認識すると、家計の消費が変動する可能性も示しています。因みに、経済実験はランダム化比較試験(Randomized Controlled Trial:RCT)を行っており、具体的な実験方法として、サーベイ調査の中に実験的な要素を組み込んだ方法(こういった実験をサーベイ実験と言ったりします)を採用しています。実験的な要素をどう組み込むのかをもう少し説明しますと、ここでは、均質な3つの調査対象グループを作り、グループごとにそれぞれ異なる情報を調査の途中に教え、そのことが購買行動などに関するその後の調査結果にどう影響するのかを調べるというものです(各グループに伝える情報は、①ドイツの現在のインフレ率(これは比較の基準となるグループに対するもの)、②ドイツの現在のインフレ率とインフレが資産の実質価値を下げるという事実、③ドイツの現在のインフレ率とインフレが負債の実質価値を下げるという事実)。こうした方法は、経済主体の期待形成が過去のインフレなど様々な経済環境にどのように影響を受けるのかという研究や、期待形成と経済主体の行動の関係性を調べるような研究で、近年用いられるようになっています。
フィッシャー・チャネルを通じた資産や負債への影響は、家計の労働供給にも影響を及ぼす可能性があります。Kuncl and Ueberfeldt(2024)では、理論的な分析から、マクロレベルで家計債務が大きくなる場合や、高齢者の資産保有比率が高くなる場合について考え、インフレが生じる場合、前者では債務の実質価値の低下が家計の労働から得られる効用を下げるため、家計の労働供給は減少するとし、また後者では、名目資産の実質価値が減少しても労働供給を増やす家計は少ないため、マクロの労働供給の増加があまりみられなかったり、より若い層の負債保有率が高い場合には、労働供給が下押しされる可能性もあるとしています。つまりこのことは、仮に金融緩和政策の短期的な効果として経済が回復したとしても、家計の資産や負債の状況によっては、インフレを通じた中期的な効果が、短期的な効果を打ち消す可能性があることを示唆しています。
このほかKekre and Lenel(2022)では米国の研究から、インフレによる負債の実質価値の低下は、流動負債で借入れを行って危険資産に投資をするような、いわゆるリスク愛好的な個人の危険資産への投資を誘発するとし、この効果はターム・プレミアムやエクイティ・プレミアム等のリスク・プレミアムを低下させると指摘しています。
Adam, Klaus, and Junyi Zhu(2016).”Price-Level Changes and the Redistribution of Nominal Wealth across the Euro Area.” Journal of the European Economic Association, 14(4), 871–906.
Auclert, Adrien(2019).“Monetary Policy and the Redistribution Channel.” American Economic Review, 109 (6), 2333–2367.
Doepke, Matthias, and Martin Schneider(2006).”Inflation and the Redistribution of Nominal Wealth.”Journal of Political Economy,114(6), 1069–1097.
Kekre, Rohan, and Moritz Lenel(2022).”Monetary Policy, Redistribution, and Risk Premia.” Econometrica,90(5), 2249-2282.
Kuncl, Martin, and Alexander Ueberfeldt(2024).”Monetary Policy and the Persistent Aggregate Effects of Wealth Redistribution.” Journal of Monetary Economics,144,103545.
Meh, Césaire A., and Yaz Terajima(2011).”Inflation, Nominal Portfolios, and Wealth Redistribution in Canada.”,Canadian Journal of Economics,44(4),1369-1402.
Schnorpfeil, Philip, Michael Weber, and Andreas Hackethal(2024).”Households’ Response to the Wealth Effects of Inflation,” ECB Working Paper No.2904, European Central Bank.
Wolff, Edward N.(2023)”Is There Really an Inflation Tax? Not For the Middle Class and the Ultra-Wealthy.” NBER Working Paper No.31775.
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