前回フィッシャー・チャネルというものを扱いましたので、今回はこのチャネル名の由来にもなった、アービング・フィッシャーが指摘したことでも有名な貨幣錯覚(Money Illusion)について、少し整理したいと思います。
小畑(2022)ではフィッシャーや、その後ケインズが行った貨幣錯覚の指摘などを整理しています。フィッシャーについては、Fisher(1928)の内容を整理していますが、ここでは、貨幣単位の価格下落であるインフレーションや価格上昇であるデフレーションが、直接・間接的に経済秩序に対してどのように弊害をもたらすのかを分析しており、例えば直接的な弊害として、インフレーションが生計費を引き上げて人々の暮らしぶりを悪くするという指摘や、債権者と債務者とで、影響に非対称性があるという指摘(これは前回の投稿の内容)をしているのに加えて、経済主体が、実質利子率ではなく名目利子率の変化(この名目利子率の変化は実質利子率の変化を反映していない)に左右されて実際の経済行動を決めてしまう貨幣錯覚をあげています。賃金についても、例えば賃金が上昇した時に同時に物価も上昇すると、実質賃金は変わらないか、もしくは下落する可能性がありますが、このような時にも貨幣錯覚をおこす可能性があるとしています。このほか、間接的にも、景気循環への影響などが考えられるとしています。
一方でケインズについては、フィッシャーの文献より後に出されたKeynes(1936)の中で、貨幣錯覚について検討しています。ここでは、フィッシャーの貨幣錯覚にとどまらず、貨幣や株式を含む金融資産一般の価格変動が企業家の行動を支配してしまう攪乱的な要因として貨幣錯覚がおこることを指摘しており、原因となる投資家の行動が能動的な投資家のアニマルスピリットによって動機づけられるとしています。因みに、Akerlof and Shiller(2009)では、ケインズのアニマル・スピリットを行動経済学の立場から解釈し直しています。ここではアニマル・スピリットの要素を5つ挙げており、①企業家や消費者による将来の経済変化に対する確信と信用乗数、②経済における公平性、③市場経済(企業家や投資家)の腐敗と背信、④物語に加えて、⑤貨幣錯覚(貨幣価値もしくは金融資産の価格変動によって、実質的な資産価値やそれに基づいてなされる企業家の投資や消費者の判断が経済合理性からかけ離れる)があるとしています。論文では、この5つの要素が、”なぜ経済は大不況に陥るのか”、“なぜ中央銀行は経済に対して力を持つのか”、“なぜ長期的に、インフレと失業とはトレードオフの関係にあるのか”、“なぜ金融資産価格と企業の設備投資は変動が激しいのか”、“なぜ不動産価格の変動には周期性があるのか”といった問題を考える鍵になると指摘しており、貨幣錯覚については、長期的にインフレと失業がトレードオフの関係になることや、企業の設備投資が金融資産の価格変化の影響を受ける理由を説明する鍵になりうるとしています。
さらに余談ですが、アニマル・スピリットという概念はケインズが初めて導入したわけではなく、例えばイギリスの政治哲学者であるトーマス・ホッブズが自身の著書「リヴァイアサン」の中で情感(Passion)ついて言及し、聖書から得たアニマル・スピリッツという概念を、生命的で動物的な精神であり、全ての生理的かつ意志的運動を呼び起こす源泉であるとしていると、小畑(2022)では説明しています。要するに、イギリスの伝統的な政治哲学では、人間が理性的な存在である以前に衝動によって運動することを欲する動物的存在であることが重視されていて、ケインズの政治哲学や貨幣経済学も、こうした考え方に基づいているということになります。
さて、こうした貨幣錯覚ですが、例えばGemma(2016)やNiizeki(2024)では、家計に対する経済実験から、消費・貯蓄・借入れ行動に影響を与える可能性があると指摘しています。Berro,Colman, and Dave(2015)でも、米国の家計へのサーベイ調査のデータを用いた分析を行い、住宅購入への影響が、名目金利の方が実質金利よりも大きくなると指摘しています。さらに、金融知識の大きさが、個々人の貨幣錯覚の度合いに影響を及ぼす可能性があると、経済実験を行い、指摘する研究もあります(Darriet et al.(2020))。また、伝統的なモデルでは最適条件が相対価格によって決まることから、貨幣錯覚を扱うことは難しいのですが、Gabaix(2014)では、経済主体が全ての価格情報を必ずしも考慮するわけではないと仮定することで、貨幣錯覚をモデルに組み込んでいます(この観点からは、例えば家計の消費行動を消費計画時点と消費時点の2時点に分け、計画時点に支出予算の配分を決める上でイメージする各商品の価格(もちろん名目値)と、実際に支出する時点に直面する価格のズレが、家計に消費不安といった影響を及ぼすようなメカニズムを組み込むといった方法もあるかもしれません)。Tamegawa(2024)でも、家計が異時点間の最適化を行うときに名目変数を実質変数と誤認してしまうようにDSGEモデルを拡張して、長期的な貨幣の非中立性(貨幣供給や貨幣需要の変動が実質的な影響を及ぼすこと)が成り立つことや、フィリップス曲線に影響を及ぼすことなどを指摘しています(Vaona(2013)も、家計が貨幣錯覚により実質賃金を誤って認識することが、貨幣の超中立性(これは貨幣供給や貨幣需要の成長スピードの変動に関する中立性)の成立を妨げることや、フィリップス曲線に影響を及ぼすと指摘しています)。
Akerlof, George A., and Robert J. Shiller(2009). Animal Spirits: How Human Psychology Drive the Economy and Why It Matters For Global Capitalism, Princeton and Oxford: Princeton University Press.(山形浩生訳『アニマル・スピリッツー人間の心理がマクロ経済を動かす』東洋経済新報社 2009年)
Berro, Kelsey, Gregory Colman, and Dhaval Dave(2015).”The Reality of the Real Rate.” Business and Economic Research, 5(2), 270-287.
Darriet, Elisa, Marianne Guille, Jean-Christophe Vergnaud, and Mariko Shimizu(2020).”Money Illusion, Financial Literacy and Numeracy: Experimental Evidence.” Journal of Economic Psychology,76,102211.
Fisher, Irving(1928).The Money Illusion, New York: Adelphi Company.
Gabaix, Xavier(2014).”A Sparsity-Based Model of Bounded Rationality.” Quarterly Journal of Economics, 129(4), 1661–1710.
Gemma, Yasufumi(2016).”Money Illusion Matters for Consumption-Saving Decision-Making: An Experimental Investigation.” IMES Discussion Paper No.2016-E-6.
Keynes, John Maynard(1936).The General Theory of Employment, Interest, and Money, in The Collected Writings of John Maynard Keynes vol.7, Cambridge: Cambridge University Press,1973.
Niizeki, Takeshi(2024).”Are Households’ Decisions in Line with the Fisher Equation?” ESRI Research Note No.87.
Tamegawa, Kenichi(2024).”Inflation Response in a New Keynesian Model with Money Illusion.” Bulletin of Economic Research,76(2),529-544.
Vaona, Andrea(2013).“Money Illusion and the Long-run Phillips Curve in Staggered Wage-Setting Models.” Research in Economics, 67(1),88-99.
小畑二郎(2022).”アニマル・スピリットと貨幣錯覚”立正大学経済学季報、72巻3号45-88
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