インフレ率の違いとフィリップス曲線のフラット化

今回は、各家計が実際に経験するインフレ率の違いや、企業についても、各企業が設定する価格の硬直性の違いに関する研究として、フィリップス曲線のフラット化というテーマについて分析した研究をみていこうと思います。

有名なフィリップス曲線は、ニュージーランドの経済学者のフィリップスが1861年から1957年の英国における、失業率と名目賃金上昇率の関係を観察したことから得た、両者のトレードオフの関係です(Phillips(1958))。これをサムエルソンとソロー(Samuelson and Solow(1960))が、失業率と物価上昇率の関係に置き換えて、やはり両者の間にトレードオフの関係があることを示しました。現在よく用いられている、標準的なニューケインジアンモデルから導かれるフィリップス曲線の式は、

インフレ率=β×来期のインフレ予想+φ×需給ギャップ

と書くことができます。

フィリップス曲線のフラット化は、需給ギャップとインフレ率の関係が非感応的になるというもので、1990年代以降、先進国を中心にみられることが指摘されています(IMF(2013)、Gemma,Kurozumi, and Shintani(2017)、Del Negro et al.(2020))。また、世界金融危機後の先進国について、2009年から2011年の景気後退期にインフレ率があまり低下しなかったことや、その後の2012年以降の回復期にインフレ率があまり上昇しなかったことも指摘されています(Constâncio(2015))。

この要因についてはこれまで様々なことが指摘されています。例えばそうした中の1つが、中央銀行が物価安定を重視して金融政策を運営し、さらに各種経済主体とのコミュニケーションも強化したことで、インフレ予想が経済状況に関わらず安定したことを要因とするものです。例えば総需要が低下する場合を考えると、フィリップス曲線を通じてインフレ率が低下してしまうのですが、さらに先々のインフレ予想も低下してしまうと、インフレ率の低下幅が大きくなったり、その後金融緩和政策によりインフレ率を元の水準まで高めるのも時間がかかってしまいますが、仮に中央銀行のコミュニケーションがしっかりととられていて、インフレ予想が安定している場合には、インフレ率の低下幅は小さくなり、金融緩和後のインフレ率の回復も早まると考えられます(例えばIMF(2013)など)。

もう1つがフィリップス曲線が非線形なのではないか、というものです(Gemma,Kurozumi, and Shintani(2017))。つまり、インフレ率がある程度高い時と、インフレ率が低くなった時とで、フィリップス曲線の傾きが異なるとする指摘になります。これを説明するメカニズムの1つが、メニューコスト仮説によるもので、メニューコストは企業が価格改定を行う際に支払う一定の費用のことですが、インフレ率が高い時にはこの費用は相対的に低くなるため、多くの企業が費用を支払って価格改定を行い、金融緩和時のインフレ率の反応も大きくなる一方、インフレ率が低くなるとメニューコストは相対的に高くなるため、費用を支払って価格改定を行う企業が減り、金融緩和によるインフレ率の反応が小さくなるという考え方です(Watanabe and Watanabe(2018))。また、インフレ率が低い時には、金融緩和時に企業が互いの価格を比較して様子をみることで価格上昇が遅れる(価格を他社に先駆けて引き上げることは、売上減少に繋がる恐れがあるため)という、戦略的補完性という考え方もあります(Woodford(2003))。さらに名目賃金の下方硬直性も言われており、賃金にこれ以上引き下げられないという硬直性がある場合、景気が落ち込んでも企業が(名目)賃金を下げられず、そのため価格もあまり下げられないということが起こるというものです。この場合、その後金融緩和による景気回復期に入っても、賃金・価格はしばらく上がらないということになります(平田・丸山・嶺山(2020)では、賃金版フィリップス曲線のフラット化の要因として指摘)。

他にはグローバリゼーションや規制緩和の影響も指摘されており、こうしたことが進んだ場合、例えば海外の工場で生産をすることによって人件費を抑え、低価格でも利益が得られる企業体制を構築したり、国際市場での競争や規制緩和による新規参入者との競争が激しくなることを通して、低インフレ下ではフィリップス曲線がフラットになることが考えられます。また、結果的に特定の企業の力が強くなってしまうような場合にも、そうした企業はマークアップを高めて価格を硬直的にしてしまうことが考えられ、他社もこれに引きずられることになるため、フィリップス曲線はフラット化するといわれています(Andres and Burriel(2018)、Andres,Arce, and Burriel(2021)、Wang and Werning(2022))。

色々と話が逸れましたが、個々の家計が実際に経験するインフレ率の違いや、個々の企業の価格改定のスタンス(価格の硬直性)の違いがフィリップス曲線のフラット化をもたらすとする研究もあります。

以前の投稿(「企業の異質性を考慮した時の最適な金融政策の分析(2024/11/15)」)でも触れた通り、サービス価格は財価格よりも硬直的であることが知られていますが、ライフサイクルで考えた場合、一般的に高齢になるほどサービス支出が多くなると考えられ、そのため、高齢化が進んだ場合にはフィリップス曲線はフラットになることが予想できます。実際、Mangiante(2024)では米国の家計に関する分析を通して、この傾向が見てとれることを示しています。また、企業についても、米国経済について1963年から2017年の長期的な分析を行ったHoynck(2020)では、趨勢的にサービス業が拡大していく中で、やはり拡大傾向にあるサプライチェーンの各段階でサービス業がウエイトを高めたことが、米国のフィリップス曲線をフラットにする一因となったと指摘しています。

因みに、近年の価格の高騰については、例えば日本ではエネルギーや食料品に関する供給ショック(Nakamura et al.(2024))が原因であるといった指摘がされており、米国でも同様の指摘(Blanchard and Bernanke(2023))や労働市場の極度のタイト化(Benigno and Eggertsson(2023))が指摘されていますが、具体的に企業はどのようなメカニズムで価格を引き上げるのでしょうか。

メカニズムの1つが、先ほどの戦略的補完性で、多くの企業がコストの上昇から価格転嫁を検討せざるを得ない状況に直面する時には、企業間の相互作用である戦略的補完性が、多くの企業で価格を引き上げる形で作用することが指摘されています(池田ほか(2022))。

一方で、家計の側では次のような研究結果が示されています。Beaudry,Portier, and Hou(2024)では、近年の急激なインフレ率の上昇と供給ショックの関係を、米国について分析を行い、この中で、家計が意思決定に用いる情報が不完全であることと、情報の処理が完全には合理的に行われないことを仮定したインフレ予想の形成メカニズムを組み込んだDSGEモデルを用いて、家計のインフレ予想は、特定のセクターにのみ影響を及ぼすような供給ショックの影響は受けないものの、多くの産業に影響を及ぼすような供給ショックが生じた場合には、多くの家計がインフレ予想を変更し、これがその後の実際のインフレ率にも影響を及ぼすとしています。また、Jinnai et al.(2021)では日本の分析から、エネルギーや食料品価格の変動による家計のインフレ予想の変動は、他の要因による場合と比べて相対的に消費に及ぼす影響が小さくなると指摘しています。これらを踏まえると、例えばエネルギーショックは家計のインフレ予想を高めますが、一方で、そのことによる消費への影響は相対的に小さいことから、企業側としては、多くの企業が積極的に価格を引き上げやすくなっているのかもしれません。

また、L’Huillier and Phelan(2023)では、経済の状態を正確に把握する家計とそうでない家計が混在する経済を考えたモデルを用いて、需要ショックに対しては、ファンダメンタル通りに価格を上昇させると、経済状態を正確に把握しない家計が価格を過度に高いとみなして需要を大きく下げるため、企業はより低い価格を設定することになるわけですが、供給ショックについては、企業のコスト増であるため、企業は家計の行動に関わらずファンダメンタル通りに価格設定を行い、高インフレが生じると説明し、趨勢的なフィリップス曲線のフラット化と、現実的な規模の供給ショックに起因して高インフレが生じることを、整合的に説明できると指摘しています。Tappata(2009)でも、合理的期待形成を行う家計と、企業2社の寡占市場を考えた探索費用モデルを用いて、消費者は企業の生産費用が増加したと考えるあまり探索しなくなることを理論的に示し、投入価格が上昇したと考える消費者が下落したと考える消費者よりも多い場合に、価格上昇は下落よりも速やかに行われると指摘しています。

このほかKhalil and Lewis(2024)では、近年の急激なインフレには、生産性の不確実性が高まると、企業の価格設定がより伸縮的になるようなメカニズムが働いていると指摘し、このメカニズムを組み込んだDSGEモデル(企業数一定のモデルと企業の参入・退出を考慮したモデル)による分析を行っています。

Andrés, Javier, Oscar J. Arce, and Pablo Burriel(2021).“Market Polarization and the Phillips Curve.”Working Paper No.2106, Banco de Espana.

Andrés, Javier, and Pablo Burriel(2018).”Inflation and Optimal Monetary Policy in a Model with Firm Heterogeneity and Bertrand Competition.”European Economic Review,103,18-38.

Beaudry, Paul, Chenyu Hou, and Franck Portier(2024).”The Dominant Role of Expectations and Broad-Based Supply Shocks in Driving Inflation.” NBER Chapters, in: NBER Macroeconomics Annual 2024, 39, National Bureau of Economic Research, Inc.

Benigno, Pierpaolo, and Gauti B. Eggertsson(2023).”It’s Baaack: The Surge in Inflation in the 2020s and the Return of the Non-Linear Phillips Curve.” NBER Working Papers No.31197, National Bureau of Economic Research.

Blanchard, Oliver J., and Ben S. Bernanke(2023).”What Caused the US Pandemic-Era Inflation.” NBER Working Papers No.31417, National Bureau of Economic Research.

Del Negro, M., M. Lenza, G. E. Primiceri, and A. Tambalotti (2020) “What’s Up with the Phillips Curve?” Brookings Papers on Economic Activity, 2020(1), 301-373.

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Nakamura, Koji, Shogo Nakano, Mitsuhiro Osada, and Hiroki Yamamoto(2024).”What Caused the Pandemic-Era Inflation?: Application of the Bernanke-Blanchard Model to Japan.” Bank of Japan Working Paper Series 24-E-1.

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池田周一郎・倉知善行・近藤卓司・松田太一・八木智之(2022)、「短観からみた最近の企業の価格設定スタンス」、日銀レビューNo.22-J-17、日本銀行

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