脱線の脱線-やる気がしないので、利子の話

今回はまだお正月であまりやる気がおきないので、そういえば去年は金利金利と盛り上がっていたな、という安直な考えから、今回は利子率の話を少しまとめたいなと思います。といっても、利子率も歴史が長いので、とりあえずど古代の話をなんとなくかきたいなと思います(参考文献はエドワード・チャンせラー(松本剛史 訳)『金利:「時間の価格」の物語』)。

確かなことは言えないようですが、一般には、最も早く行われた取引は物々交換ではなく、信用取引だったと信じられているようです。先史時代の人々は、おそらくトウモロコシや家畜の貸し出しに利子をつけていたと考えられています。利子と貸し出しによる報酬との関連性は、古代の言語にその痕跡をとどめており、シュメール語で利子を表すmasは子ヤギという意味で、古代エジプト語のmsは生むという意味、古代ギリシャ語のtokosは子牛を意味していました。家畜の貸し出しに利子をつけることは、近代に入っても行われていて、19世紀初頭の米国の新開拓地では、牛や羊をつけで売ることが一般的で、引き渡された数の2倍を4年後か5年後に返すという条件付きだったといいます。19世紀のドイツの経済学者カール・アルトンは、自然の生産性と利子のつながりを指摘していて、ヨーロッパの国々の利子率は、ヨーロッパの森の木の成長率3%か4%を下回ることはありえないと指摘し(マルクスはこの考えを、原始林利子率と呼んでいたそうです)、アーヴィング・フィッシャーも、自然はかなりの程度まで再生産的で、人々は森や農場から、急いで木を切り倒したり土を使い果たすのではなく、待つことによってより多くを得られるが、言い換えれば、自然の生産性には利子率を維持しようとする強い傾向があることになると指摘しています。

話を古代に戻します。メソポタミア人の有名な発明として、複利を生み出したことがありますが、これにまつわる有名な話として、南メソポタミアの隣接する2つの都市国家、ラガシュとウンマの国境をめぐる争いがあります。この記録は、ラガシュの支配者エンメテナ(~前2400年)の名で出された碑文に書かれています。そこに書かれていることとしては、40年ほど前に、ウンマがラガシュに属する農地の一部を占領し、その土地でとれる大麦をラガシュに年300グル(リットル)支払うという合意が当時なされました。しかし、ウンマは義務を果たさず、そのためエンメテナは問題の領土を取り戻し、未払いの穀物をあらためて支払うように求めたのですが、この債務が当時大麦に対して一般的であった年率33.3%の複利で計算すると、大麦が4兆5000億リットルという信じられないような量になってしまい、結局支払いが実現せず、2つの都市国家は戦争に突入してしまいました。

非常に恐ろしい話ですが、債務に複利がつくと支払い不能に陥りやすいということなのかもしれません。18世紀末に英国の哲学者リチャード・プライスも、イエス誕生の時に1ペニーが、年率5%の複利で貸し出された場合、1773年時点で、地球と同じ大きさの純金の塊の1億5000万個分を超える金額になっているだろうという計算をし、複利計算の影響の大きさを指摘しています。

こうした中、古代社会ではあることが行われるようになりました。それが支配者による債務免除です。これを最初に行ったのも、ラガシュの支配者であったエンメテナだったそうです。次の債務免除はその50年後に行われ、バビロニアではその後、慣例的に新しい治世の始まりとともに債務帳消しが発表されていたそうです。こうした債務免除はその後古代ギリシャやローマでもみられ、例えば紀元前594年にはアテネのソロンが「重荷を振り捨てる」と言明し、借金のかたにとられた地所を明示する抵当標石を打ち砕くように命じて、市民を債務のくびきから解放しています。また、この際には金利の引き下げも行っています。因みに、債務免除は借り手が債務に縛られて身動きがとれなくなったり、債務者に土地から締め出されたりしたときに起こる社会的混乱を抑制する効果がありましたが、これらは消費者(穀物)貸付にだけ適用され、商業(銀)貸付への影響はなかったそうで、為政者たちはもっぱら、個人の借り入れの行き過ぎが社会に及ぼす影響を憂慮していたといえます。

また、世界最古の法典とされるハンムラビ法典は紀元前1750年頃までさかのぼるものですが、かなりの内容が利子の規制に関するものでした。バビロニアのハンムラビ王は当時の信用慣行を慣習的な利子率とともに石に刻んで成文化しました。例えば銀の貸付利率の上限は20%、大麦は33.3%とされており、利子率の上限を超える請求をしたり、元本から返済額を差し引かなかったり、不正な分銅を使ったりする貸し手には罰則がありました。また、洪水や干ばつで農作物に被害が及んだ時には、利子を免除するようにという指示も記されていました。

一方で、金融関係者が規制を逃れようという試みも、当時から頻繁に行われており、こうした動きが更なる規制を生んでいたそうです。

古代世界で利子率がどのように決まっていたのかについても様々な指摘があります。古代世界の利子率は数世紀の間に大幅に下がっていたのですが、この長期的な傾向には、経済的要因よりも、測定標準が変わることの影響の方が大きかったそうです。60進法のバビロニアでは銀の貸し出しには月あたり1/60の利子が課されており、一方で10進法のギリシャでは年10%、12進法のローマでは年1/12(8.33%)の利子が課されていました。ケインズも『貨幣論』を書くにあたってバビロニアの貨幣史を研究し、利子率は市場の力よりもむしろ慣習によって決まると指摘しています。

現代社会でも、慣習は金利の水準を設定する上で一役担っており、ホーマーとシラーは、米国では最近まで、多くの種類の金利が非常に緩やかに変動していたことや、高利の制限がおおむね1960年代まで変わらなかったことを指摘しています。また、Borio et al.(2017)でも、過去およそ100年間の金利がより大きな影響を受けてきたのが、個人の貯蓄や投資判断といった経済的要因より、様々な通貨体制(金本位制、金為替本位制、ブレトンウッズ、ドル本位制)の性質だったと指摘しています。

他にも当時の利子率をみてみると、市場金利に幅があることがわかっていて、例えば新バビロニア時代の記録には、5%の低利子から240%の高利子までがあったそうです。このうち、高い利子率にはリスクプレミアムが含まれ、例えばハラヌ貸付と呼ばれる交易相手への融資では利回りが40%もありましたが、これは、船が航海中に失われた場合には元本を償還しなくてよいというものでした。他には、アッシリアが支配したカッパドキアの商業都市では金利がメソポタミアより高かったことや、大商人が支払う利子が低信用の借り手より低くすんだこともわかっています。

さらに、アレキサンダー大王がペルシャの金銀を大量に奪って分配した後には、物価が上昇して金利が低下したといわれているほか、皇帝アウグストウスがエジプト王のものだった財宝をローマに持ち帰ると、貨幣があり余って金利が低下したといわれています。また、アウグストウスの死後には、皇帝ティベリウスが貨幣を退蔵した結果、金利が法で定めた上限を上回り、西暦33年に銀行危機が起きたそうです。するとティベリウスは皇帝の財産を無利子で貴族に貸出すことを決め、それで金利は直ちに低下し、危機の終結をもたらしました。

こうした古代の利子率を研究したバーム・バヴェルクは、国の文化水準と利子率の関係を指摘しています。研究によれば、利子率は偉大な文明が進む道筋を示しており、バビロン、ギリシャ、ローマでは、利子率は数世紀にわたってU字型の曲線を描いていて、それぞれの文明が確立し繁栄するにつれて下がり、衰退し滅びる時期に急上昇しているそうです。例えば、新バビロニア時代初期には、銀の貸付利率は8.33%という低水準まで下がり、バビロニアがペルシャに征服された後の前5世紀初めには、40%以上に跳ね上がっています(より近代でも、18世紀のオランダの利子率は、オランダ共和国がフランス軍に制圧される直前に底をうっています)。

Borio, Claudia, Piti Disyatat, Mikael Juselius, and Phurichai Rungcharoenkitkul(2017).“Why So Low for So Long? A Long-Term View of Real Interest Rates.” Political Economy – Development: Fiscal & Monetary Policy eJournal (2017): n. pag.

エドワード・チャンセラー(松本剛史 訳)(2024)、「金利:「時間の価格」の物語」、日本経済新聞出版

コメントを残す