“経済成長”について考える(6)

1980年代の米国経済を語る上で欠かせない人物といえば、ロナルド・レーガンがあげられます。この人は大学卒業後シカゴカブスのアナウンサーとしてキャリアをスタートし、その後、借金苦で自殺した若手俳優の補充を探していたワーナー・ブラザーズに、“なんとなく似ているイケメン”という理由で契約され、以降、多くの作品に出演しています。

政治活動ということでは、ルーズベルト大統領のニューディ―ル政策に感銘を受けてリベラル派としてキャリアを開始し、その後、保守派に転じています。1940年代後半から1950年代にかけての全米的な反共産主義運動にも参加しています。

その後、1967年にカリフォルニア州知事に就任し、この職務を1975年まで勤めています。この時にも、自由主義者としての顔がうかがえるエピソードがあり、例えば州議会で“バイクに乗る際、ヘルメットの着用を義務付ける”という法案が通過した際、レーガンは州知事権限でこれを取り消しています。

その理由は、“バイクに乗る者は、バイクに乗るという行為がどれだけ危険かわかって乗っているはずだ。ならばヘルメットの着用などということは個人に任せるべきであって、それに州政府が関与する必要はない”というものだったそうです。その後、カリフォルニア州では1992年にヘルメット着用が義務化されています。自由主義もそうですが、個人的にはレーガンの豪快さもうかがえるエピソードだと思います。

レーガンの豪快さがうかがえるエピソードは、大統領になってからもあります。彼が大統領に就任したのは1981年1月21日ですが、それから69日後に、実は狙撃され、肺に穴が空いているのです。その後一命はとりとめ、当時70歳だったのですが、驚異的なスピードで回復し、事件から10日後には退院しているのですが、その入院中、彼は妻に“よけるのを忘れていたよ(Honey,I forgot to duck.)”といっていたそうです。

以前、何かの番組で、有名な芸人が若手から、“人間力は必要ですか?”と聞かれ、“むっちゃ必要”と答えていました。政治家も近いものが必要な職業だろうと考えると、この人は素質十分、といえたのだと思います。

前回も触れた通り、1970年代の米国はインフレと景気停滞が同時進行するスタグフレーションの状態でした。こうした中、前任のカーター大統領(民主党、レーガン氏は共和党)は、FRBのボルカ―議長の指揮のもとインフレ退治を優先させ、大幅な利上げを行いました。それによりインフレは収まりましたが、同時に景気も悪くなりました。そうした中行われた1980年の大統領選では、有名な“4年前より生活はよくなったか”という問いかけや、トランプ大統領も使っている“Make America Great Again”のスローガンを前面に出し、また、カーター政権がこの頃起きていたイランのアメリカ大使館人質事件を解決できずにいたことも相まって、大統領に当選します。

第一期レーガン政権のスタート時、彼らは米国の保守層を引き付ける哲学こそ持っていたものの、具体的な経済戦略には乏しい状態だったといいます。そうしたなか、当時無名の存在だったディヴィット・ストックマン達が急遽、供給重視の経済学(サプライサイド・エコノミックス)に立脚した経済戦略(レーガノミクス)を作成しました。

1981年2月18日には“経済再生計画”を発表していますが、内容は歳出の伸びの大幅な抑制、民間経済の再活性化のための大規模減税、規制緩和、安定的な金融政策の4本柱で構成されていました。その後、議会で多少の修正はされたものの、1981年8月に“81年経済再生法”および“81年一括調整法”として成立しています。

これらの政策は、スタグフレーションの2つの要素である景気停滞とインフレに対して同時に対処しようとしたもので、減税・歳出削減といった財政政策と様々な規制緩和を行うことで、労働意欲や貯蓄・投資を刺激して、生産性向上を促し、供給力を高めるとともに、インフレに対しては通貨供給量重視の金融政策を維持し、名目需要の伸びを抑えて、その鎮静化を図るとしました。

もう少し詳しく言えば、まず政府部門の行き過ぎた拡大が民間の供給力不足や伸び悩みを招いているとの見方から、資源を民間に戻して民間レベルでの資本形成を促進するため、歳出の伸びの抑制と、企業・個人に対する大規模な減税によるインセンティブを与えることとしています。

個人減税は限界税率の引き下げなのですが、これはつまり比較的高所得者の可処分所得にプラスになるよう働きかけ、そうすることで“より働こう”と考えて労働供給を増やしてもらったり、こうした人達が稼いだお金を投資に回してもらおう、というものでした。

一方、企業に対しては、減価償却の加速・簡素化(ACRS)および投資税額控除(ITC)の適用拡大(いずれも1981年1月に遡及して実施)等により投資インセンティブを与え、インフレ下で抑圧されていた企業の実質税引き後収益率の回復と設備投資の活発化を狙いました。

加えて、70年代に急増した政府規制が、今や一部市場機能を阻害し民間活動を制約して生産停滞の一因になっているとの認識から、これらの大幅な緩和が必要と考えました。

また、従来の総需要管理政策が、通貨供給量の過度の増大等によってインフレ的な偏りをもたらしたとの認識から、インフレを抑制するためには通貨供給量を実体経済の成長範囲に安定的かつ抑制的にコントロールすることが必要と考えました。

共和党は伝統的に、政府は資源配分上非効率な存在で、政府支出が拡大するとその分民間が利用できる資源が減少し、設備投資が過少となって経済成長が損なわれる、また歳出の拡大は国民の過重な税負担にも繋がり、勤労意欲や企業活動に悪影響がでるという考えや、金融政策についても、過剰な通貨供給はインフレを昂進させ経済に悪影響を与えるという考え方を持っていることもあり、こうした考え方になりました。

ただ、この考え方は、当時の主流派であるケインジアンの方々からは、大バッシングを浴びます。例えば、サプライサイドエコノミクスの理論的な基礎は、南カリフォルニア大学のラッファー教授が唱えた、“ラッファー曲線”に基礎を置いています。これは教授が政府関係者との食事中に、紙ナプキンに書いた曲線という話が有名ですが、内容としては、過度に高い限界税率を設定すると、脱税の促進や勤労・投資意欲の阻害に繋がり、結果的に税収は減少するが、一方で、減税すると、勤労・投資意欲が回復し、脱税もコストに見合わなくなってくるため、税収は増加するという考え方ですが、ケインジアンの先生方は、“供給側にそんなに効果があるわけないだろう”と怒り、“ブードゥ―経済学”と揶揄しています。

また、限界税率を引き下げるという考え方も気に入りません。前々回の投稿で触れた通り、一般理論的には、所得が低い程、限界消費性向が高いので、乗数効果も大きいということになりますから、金持ちや企業を優遇することで、結果みんなが得をするというこの考え方(言い方を変えれば、富裕層が豊かになる恩恵がしたたり落ちるとするトリクルダウン効果)は間違っており、どちらかといえば格差を拡げるだけだといっています。

具体的にみてみると、イエール大学のジェームス・トービン教授は、いわゆるネオ・ケインジアンで、ケインズ理論を現代的な金融理論と結びつけて考えた人として有名ですが、彼はレーガノミクスを“過去40年間の進歩を40年前の古い政策(自由放任主義という意味)に逆戻りさせてしまう”と指摘し、“放っておけば市場の力で勝手に失業は解決されるというが、政府の介入がなければ、場合によって長期間に及ぶことがある”という考え(市場の不完全性)を示しています。

ソローモデルで有名な、ロバート・ソローも、ネオ・ケインジアンと呼ばれる人で、彼は戦後のメインストリーム経済学において、ケインズ経済学と新古典派経済学を統合しようとした“新古典派総合”の中心人物ですが、その彼も批判的で、彼に言わせれば、経済成長には技術進歩が必要ですが、それは単なる減税ではなく、教育やインフラなどの公的基盤があってこそ成り立つといっています。

他には、ポール・サミュエルソンも、レーガノミクスの各要素(歳出削減、減税、規制緩和、金融引き締め)が矛盾をはらんでおり、“部分の総和以下”という指摘をしています。

こうして、様々な批判にさらされたレーガノミクスですが、批判にさらされた要因としては他にも、その規模の大きさや内容といった要因もあり、特にレーガンは大統領を2期務めているのですが、その1期目のレーガノミクスをみてみると、1981年の税制改正では、1986年までの5年間で7500億ドルもの法人・個人減税を予定し(しかも個人は富裕層に対する減税)、一方で、個人の可処分所得や資産が増加しても、国債がこれを吸収してしまっては意味がないため、歳出の削減も計画に盛り込んだのですが、それも、国防費を当時の冷戦対策のためにむしろ積極的に引き上げてしまったことで結局実現できず、また、国防費以外で削らねばということで、メディケイド、フードスタンプ、学校給食、公務員などの削減を行ったのですが、それも批判を浴びました(実は、ソローもこの教育とかの予算削減が気にいりませんでした)。

また、規制緩和については、経済を活性化させたとする指摘がある一方で、経済格差を拡大させたといったマイナスの指摘もあります。

全体的に、特に1期目のレーガノミクスに関して言えば、経済を活性化させたが、コストはそれ以上にかかってしまったというところかもしれません。もう少し詳しくいえば、1981年から86年までの実質GNP成長率の実績値は、平均で2.6%となっています。つまり実質ベースで成長しているわけですが、当初の政府の見込みは4.0%であり、下回っています。また、インフレ率も考慮した名目GNP成長率でも、実績値は7.6%である一方、政府の見込みは11.1%であり、これも下回っています。こうしたことから、経済成長による税収増以上に、財政赤字が積み上がってしまった(コストがかかってしまった)ということになったのだといえます。

こうして財政赤字は拡大してしまったわけですが、ただ、経済が活性化されたのは確かです。米国の消費は大いに活性化されたのですが、ここで、もう1つ問題が生じます。これはより以前から米国内でおきていたことなのですが、消費者信用(クレジットカード、自動車ローン、学生ローンなど)や住宅ローンの利息の所得税控除という制度が当時の米国にはあり(現在は消費者信用の税控除は廃止、住宅ローンの税控除は一部残っているが限定的)、そうしたことから米国民の中で過剰消費体質というものが生まれていました。そのため、消費が大きく拡大しすぎてしまって、国内の供給だけでは追いつかなくなり、海外からの輸入がどんどん増えていきました。

加えて、この時の米国は政府債務残高が積み上がっている状態ですから、金利が押し上げられ、それによってドル高が生まれました。例えば、1978年には1ドル176円でしたが、1982年11月には1ドル278円までドル高(円安)になっています。こうなれば輸出する側の方が俄然有利なので、米国の輸入額はどんどん膨らみ、1985年には貿易赤字に転落してしまいます。この貿易赤字は、財政赤字とセットで、“双子の赤字”と呼ばれました。

そうなってしまうと、ドルの暴落というのもみえてきてしまうため、1984年の後半に景気拡大テンポが多少鈍化したのをきっかけに、米国政府も意識し始めるのですが、長くなったので、ここからは次回に回そうと思います。

参考文献

経済企画庁(1987)、「昭和62年 年次世界経済白書-政策協調と活力ある国際分業を目指して」、内閣府

Wikipedia、「ロナルド・レーガン」(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%AD%E3%83%8A%E3%83%AB%E3%83%89%E3%83%BB%E3%83%AC%E3%83%BC%E3%82%AC%E3%83%B3

コメントを残す