前回の最後で触れた通り、レーガン政権は減税によって旺盛な米国民の消費を刺激しましたが、そのことが貿易収支を悪化させ、貿易赤字に陥ることになりました。また、巨額の減税や軍事支出が増加したことで財政赤字が拡大し、それが金利を上昇させることでドル高を生み、さらに貿易収支の悪化に繋がりました。
レーガン政権に限らず、基本的に米国では強い米国の象徴としてドル高を好んでいたのですが、1984年の大統領選で再選したのを機に、この財政赤字と貿易赤字の組み合わせである“双子の赤字”を解消するため、レーガン政権はドル高の是正に動き出します。
1985年9月には、米国、日本、英国、ドイツ、フランスの5か国の財相と中銀総裁が、米国のベーカー財務長官の呼びかけでニューヨークのプラザ・ホテルに極秘で集まり、米国が抱える経済問題について話し合って、以下の3点について合意しました。
・為替レートは不均衡是正を調整する上で重要な役割を果たすべきであること
・為替レートは経済のファンダメンタルズをこれまで以上に反映すべきであること
・主要国の対ドルレートは一層の秩序ある上昇が望ましく、そのために5か国はより密接に協力する用意があること
これがプラザ合意なのですが、この直後から、5か国は大規模なドル売り協調介入を行いました。これによって、1985年9月24日に1ドル=242円だったドル-円レートは、1年後には1ドル=151円台まで上昇します。
実はこれは財政面でも意味のあることでした。というのは、当時米国債を最も買っていたのは日本だったわけですが、ドルの価値が対円で下がることによって、米国は日本からの債務を事実上減らすことに成功したことになるわけです。
因みに、1987年に入ると、すでにドルの下落は十分に進んだとする声があがってきます。また、大幅なドルの下落がインフレ、高金利、景気後退をもたらす危険性を帯びてくるようになり、日本や西ドイツといった国では、ドル安の影響による不況が懸念されるようになりました。そこで、その問題に対処するため、1987年にG7参加国間で新たに“今度はドルを140円~160円の範囲に安定させよう”というような、ルーブル合意が結ばれました。
一方で、レーガン大統領は自国の歳出改革にも力を入れました。1985年には債務国に転落するという事態に直面したこともあり、議会も財政赤字の削減を全てに優先させるべき課題と認識し、その結果“1985年財政均衡・緊急赤字管理法(Balanced Budget and Emergency Deficit Control Act of 1985)”を作成しました。因みに、この法律は通称、”グラム・ラドマン・ホリングス法“とも呼ばれ、以前の”財政政策を考える“の中でも少し触れました(管理人(2026)のP33あたり)。
この法案は、予算編成過程に財政赤字の削減手続きを導入するもので、1991年までに財政赤字をゼロにすることを目標に、1986年~1990年までの毎年の財政赤字の目標上限額を経年的に削減することとしました。また、財政赤字の目標額が達成できる予算の編成が不可能な年については、大統領が一律歳出削減命令を出し、目標額が達成できるまで歳出を削減することとしていました。
税制については、第一次政権の時から少しずつ軌道修正を行っていました。最初に作成した1981年経済再生法(Economic Recovery Tax Act 81:ERTA 81)では、家計と企業、両方に対して大幅な減税を行っているものの、その後の1982年、84年には、間接税の増税(空港空路利用税、電話利用税、たばこ税)や各種控除の廃止・縮小(医療保険料控除の廃止、企業の投資税額控除の縮小等)などを行っています。そうした中、1986年の税制改革では、税制を全面的に見直し、トータルでの歳入額は維持しつつ、家計に対しては負担減(減税)となるように対応を行いました(1997年に米国下院で推計(Auerbach and Slemrod(1997)))。
というのも、家計については当時所得格差の拡大とインフレが問題となっていたのですが、これが所得税と相性が悪かったという事情があります。所得税は、失業保険や生活扶助制度と同じで、“自動安定化装置”と呼ばれるタイプの財政政策に分類されています。財政政策といえば、やるまでが長いといういわゆる内部ラグが大きいというイメージですが、自動安定化装置タイプの財政政策は、一度設定してしまうと内部ラグが全くないので、それこそインフレが続くと賃金も上がりますから、所得税の税率区分をまたいでとられる税金がどんどん大きくなっていくということが起こり、特に所得の低い人たちの間では、景気が良くなると、年々自分の税の負担感が増していく、というようなことが起こっていました。民主党はこうした問題に敏感ですが、共和党にしても大きな票を持っている層なので気になる、といった事になったわけです。また、前回の投稿でも述べた通り、81年の所得減税が高所得層の減税として行われた反省もありました。
要するに、増税であってはならず、低所得者に不利にならないようにという考えで始まったのですが、結局、1986年の税制改革では、このための対策として、基礎控除を引き上げることで、課税対象となる所得のボーダーラインを引き上げ、それによって低所得者層では非課税世帯が増加しました。ただ、一方で、この税制改革は”簡素”で”公平”であることを追い求めた大工事だったため、所得税率の区分が少なくなったことに加えて、区分間の所得税率がより近づく形、具体的には最低税率が上がり、最高税率が下がるという変更になったため、所得税がかかってしまう低所得層は増税で、高所得層は減税という、トータルで減税効果とはいえちょっと複雑な結果となってしまいました。
これに対して、企業については、景気が良くなって黒字化するところが増えてきたという状況にあったことから、法人税率の区分について、家計と同様に、従来の5区分から3区分に簡素化し税率も引き下げた一方で、1年目の法人税を抑える効果がある、加速度償却制度の加速性を緩和したり、設備投資の投資税額控除や配当・交際費、貸倒引当金控除の廃止や縮小を行いました。その結果、企業についてはトータルで増税効果となりました(Auerbach and Slemrod(1997))。
こうした取組はいくらか効果があったのは確かですが、それでも対策として不十分だったとされています。特に歳出削減の取組みである、1985年財政均衡・緊縮赤字管理法(またはグラム・ラドマン・ホリングス法)については、1991年に財政収支を均衡させることを目標として、毎年の財政赤字の目標値を定め、年初の財政赤字の見通しが目標値を100億ドル以上上回る場合(また、1991年についてはゼロにならない場合)、目標を超えた額の半分を国防費から、残りを非国防費から一律に削減する手続きを定めているのですが、この方法だと、あくまで年初の赤字見通しと目標値を比較しているため、途中で補正予算を組んでしまえば、それで年間の財政赤字が目標値を上回ったとしても、特にこうしようという話にはならなかったわけです。
そこで後継のブッシュ政権(やはり共和党。ブッシュ氏はレーガン大統領時代の副大統領)では、新たに成立させた90年包括財政調整法(Omnibus Budget Reconciliation Act of 1990:OBRA90)のなかで、国防費を中心とした裁量的経費の上限を定めるCap原則と、医療給付や年金といった、一度法律が成立すれば自動的に毎年支出する義務的経費について、制度改正によって経費の増加や減税を行う場合には、その財政負担に見合った増税又は歳出削減をあわせて行うとするPay-as-you-goの原則を定めています。
こうした歳出削減のための法律の制定や、(1990年後半~1991年にかけて一時的に景気が悪化するものの)IT産業を中心に90年代以降、特にクリントン政権下で好景気が起こったことによって、政府の財政収支は、90年代後半には黒字化を達成します。
参考文献
管理人(2026)、「財政政策を考える」、本ブログ
Auerbach, Alan J., and Joel Slemrod(1997).”The Economic Effects of the Tax Reform Act of 1986,” Journal of Economic Literature,35(2),589-632.
コメントを残す