“経済成長”について考える(9)

今回は西ドイツと日本の経済政策についてみていこうと思います。西ドイツの経済を語る上で重要となるのは、ヘルムート・コール首相です。この人は、1982年~1998年まで西ドイツ(および東西統一後のドイツ)の首相を務めており、まさにこの頃はコールの時代といえます。

この人はナチス政権時の第二次世界大戦末期に軍事訓練を受け、空軍に召集されているのですが、結局戦闘に参加せずに終戦を迎えます。その後、1946年にキリスト教民主同盟に入党しています(コールは1930年生まれなので、弱冠16歳!)。また、大学では法学・歴史学・政治学を学び、博士号も取得しています。党の中では、1969年に副党首、1973年に党首になっています。

コール政権の経済政策をみていく上では、社会福祉の観点が重要となります。ドイツの社会保障制度は、ビスマルクが世界に先駆けて導入したもので、この国では伝統的に思想が根付いているといえます。また、第二次世界大戦終了後、再び極左・極右政党のようなものが出てこないようにと、貧困の根絶を目指した社会保障制度を作ろうということで、非常に重要視され続けているものといえます。一方で、積極的に社会保障に取組む姿勢は、長い年月をかけて政府債務が積み上がるという側面も生み出してしまいます。

そのため、当時世界的に影響を与えていたオイルショックに端を発する景気後退も非常に大きな問題だったのですが、財政再建もコール首相就任直後からの課題となっていました。

こうした中、コール政権では様々な取組を行っていて、その1つ目としては、例えば“公共支出の削減”があげられます。より具体的には、福祉支出の見直しとして、年金の支給開始年齢の引き上げや、長期間失業している人の失業保険の支給の見直しを行ったり、行政の効率化を目指して、官庁の再編や公務員の削減を行ったり、公共投資を削減して、重要なインフラ整備や産業競争力の強化に繋がるような事業への重点投資に切り替えたりといったことを行いました。

ただ、ドイツの場合は伝統的に社会福祉への意識が非常に高いため、例えば失業保険給付の支給を厳格にするかわりに、若年労働者・長期失業者・高齢者といった幅広い人を対象とした職業訓練プログラムを拡充したり、“デュアルシステム”と呼ばれる、ドイツで伝統的に行われている、企業内訓練と職業学校訓練をあわせたようなシステムがあるのですが、それを強化したり、失業者の再就職支援のためのプログラムを導入しています。

2つ目としては、税制改革ということで、付加価値税の引き上げを行っているほか、法人税収(など)を増やすため、通信、エネルギー、交通産業の公的企業の民営化を積極的に進めました(公的企業には結構な免税があったので..)。ただ一方で、コール政権としては経済の再建も必要となっていたことから、所得税減税や遺産・贈与税の減税、法人税減税や、企業が新たな設備投資を行った場合にその費用を短期間で償却(税務上の損金として計上)できるような減価償却の制度設計などを行いました。また、公的企業の民営化は競争を生み、産業の育成に一役買いました。

ここまでのコール政権の取組を端的に言い表している言葉としては、1982年10月1日の施政方針演説でも頻繁に用いられた、“転換”と“中道の連立”があります。

“転換”というのは、それ以前の政権が行ってきた、行き過ぎた社会民主主義政策からの転換ということになります。また、“中道の連立”という言葉は、自身の政権のことをあらわした言葉で、これは、自分たちがやりたいのは、自由主義的な政策運営ではなく、あくまでドイツ福祉国家の“中立化”なのだ、ということからきています。1つ例をあげると、政権の基本方針の中に、“業績と給付をより強く結びつける”という部分があるのですが、この全体をみてみると、

“第四点、我々は、業績と給付をより強く結びつけることは正しいと考えている。この結びつきを否定する人々は、ドイツ国民を貧困に陥らせ、社会的安定を危機に追い込む者である”

といっています。つまり、財政再建や景気回復を目指してはいるものの、その解決策として“社会的リスクの個人化”が起こるようなことにはならないようにやっていくという考えが強く出ているわけです。こうしたところは、ドイツの特徴といえます。

他には、コール首相はドイツ統一の時の首相ですが、欧州連合の設立にも大きく寄与した人物といえ、1993年に発効したマーストリヒト条約(EUの創設を定めた条約)の締結などの際に力を発揮した、まさに“欧州の中のドイツ”を体現した人物といえます。

EUの創設および共通通貨ユーロの導入は、経済的に非常に大きな出来事ですが、これらの実現にドイツが主導的な役割を果たせたのには、コール首相の人柄が関係しているといえます。近藤(2011a)によれば、コール首相は、まずは多様な人脈を築き、その上でリーダーシップを発揮するタイプの政治家であったとしていて、首相在任中は党内に強固な人脈を持ち、官邸内での非公式の会合で様々な基本方針を決定したり、内政について、“コールの代理人”と呼ばれる、信頼のおける側近もいたとされています。また、ドイツ統一の際にも、ブッシュ米国大統領と親密な関係を築き、統一後のドイツがNATOに留まることを約束することで強力な支持を得ましたし、欧州統合の際には、先ほどの“コールの代理人”の方々が主導的な役割を果たしたほか、フランスのミッテラン大統領や、欧州委員会のドロール委員長と親密な関係を築いて、欧州統合を共に成し遂げました。

(注)ドイツ国内に関してさらにいえば、後に女性初の首相として、ドイツの首相を16年間務めたアンゲラ・メルケル氏は、コールによって若くして見いだされ、後に“コールが政治の師”と評しています。

次に日本に目を向けてみようと思います。こちらについては、誰かにフォーカスするというよりは、出来事中心にみていこうと思います。1980年代初頭の日本では、オイルショックの影響から造船、化学、繊維、海運といった産業は、構造的な不況に陥っていました。一方で、電機、自動車、精密機械といった比較的新しい産業は好調を維持していたのですが、こちらも海外からの圧力にさらされるという不安定を抱えることになります。そうした中、中曽根康弘総理に依頼され、前川春雄元日銀総裁らによって新たな国家のあり方を提言した、“前川レポート”が作成されます。ここで示された具体的な構造改革の方針は

  • 内需拡大策
  • 産業構造の転換
  • 輸入の促進、市場開放
  • 金融の自由化、国際化
  • 世界経済への貢献

となります。この中でも特に力を入れたのが、(1)内需拡大策と(2)産業構造の転換で、具体的には、住宅対策、都市再開発、消費生活の充実(労働時間の短縮)、地方の社会資本整備、経済のサービス化、流通・金融市場の開放などが主眼とされました。

こうした中、日銀は5回にわたって公定歩合の引き下げを行い、それによって金融が大幅に緩和されたのですが、こうした資金が東京湾岸を中心とした都市開発ブームに流れ込み、全国の地価が高騰することになります。

例えば年一回調査が行われる公示地価をみると、全国の商業地の平均価格の前年比は、1986年は+5.1%でしたが、87年には+13.4%、88年には+21.9%へと上昇しており、中でも東京圏の商業地では、1986年は+12.5%、87年は+48.2%、88年は+61.1%となりました。また、不動産業界向けの融資残高は、銀行やノンバンク、住宅金融専門会社の合計で200兆円にも達しました。

さらに、緩和マネーは株式市場にも流入し、日経平均株価は1984年末には1万1542円であったものが、85年末には1万3113円、86年末には1万8701円、87年末には2万1564円に上昇しました。当時の東証1部・2部合計の時価総額は1984年末の161兆円から1987年には336兆円に膨張し、当時の名目GDPとひけをとらない水準になっています。

ただ、こうした投機ブームの中で、1988年頃から、地価の高騰は度々社会的に大きな問題を引き起こすようになります。再開発に必要なまとまった土地を確保するために“地上げ”行為が横行し、相続税や固定資産税の支払いに困った挙句、泣く泣く自分の家を売るということも多発しています。

株式市場では、不祥事が発生します。1988年頃に発覚した“リクルート事件”では、未公開株のリクルート・コスモス株を巡る贈収賄の容疑で、リクルートやNTTの会長、中曽根内閣の官房長官などが次々と起訴されました。

こうしたことに対抗するため、1989年に3回、1990年に2回の金融引き締めが行われました。また、1990年8月には湾岸戦争が始まって、原油高を引き起こします。当時日本の株高を支えていたのは“低金利、円高、原油安”のトリプルメリットだったのですが、このうち2つが失われてしまった形になり、そして、じきに通貨についても円安になったことで、トリプルメリットが全て消失してしまいます。結果的に株価は、1990年に入って下がり始め、1989年末には3万8915円あった日経平均株価は90年10月には2万221円まで下がります。その後日経平均株価は、1992年に1万4309円で下げ止まるまで下がり続けることになります。

一方で、地価については、金融引き締めだけでは高騰に歯止めがかからず、当時の大蔵省銀行局からの通達によって“総量規制”が導入されます。この通達の内容は、全国の金融機関が、四半期ごとの不動産向けの融資残高の伸び率を、貸出残高の伸び率以下に抑えるよう義務付けたもので、それまでは金融機関の土地担保融資の制限が無制限だったところに、直接的に制約を導入したものです。

こうしたことから、1991年に入ると地価が下落に転じるようになり、価格が落ち着くにしたがって、借金が目立つようになってきます。借入れによって土地投機を行っていた不動産会社や建設会社、ゴルフ場開発会社、ノンバンクは次々と返済不能に陥り、倒産の危機に直面します。また、株式運用に失敗して経営が立ちいかなくなった上場企業も続出しました。さらにそれ以上に深刻だったこととして、土地を担保に融資を行ったノンバンクの融資の焦げ付きもありました。こうしたことが90年代後半の不良債権問題や金融機関の大型倒産に繋がっていきます。

こうしてみると、日本は他の国とは少し異なる歴史をたどってきたと考えられますが、そのようになった理由として、他に、①中国の台頭と②IT産業の遅れも指摘されています。

つまり、鉄鋼産業のような、高度経済成長をけん引してきた重工業や化学産業などでは、80年代に入ってからも、伸び悩みが続いたのですが、一方で、この時期に伸びてきたのが中国になります。80年代は自動車や半導体のような新しい産業が伸びていたのと、バブルがあったことからわかりにくくなっていたのですが、1978年に鄧小平によって改革開放路線が打ち出されて以降、その人件費の安さを武器に、日本が高度経済成長時代に強みとしていた産業を中心に、世界中でより安価な製品の販売を行うようになり、結果日本の重化学工業では、成長の伸び悩みが生じてしまいました。

もう1つはIT産業への参入の遅れです。既存の産業で中国製品のような安価な製品が出てきてしまった時の対策として、新しい産業への進出という方法が考えられ、IT産業は有力な産業だったわけですが、日本はここで遅れてしまいます。理由は日本企業の縦割り的な会社風土にあり、当時のIT産業は、それまでの全ての工程を自分で引き受ける“垂直統合”的な生産構造から、複数の企業が得意分野を担当して製品を供給する“水平分業”的な生産フローにして、工場をあまり持たないようにするシステムに移行(ファブレス化)していたのですが、このシステムに日本企業が対応できなかったためといわれています。

日本に関しては、本当に複合的な出来事が、他の国とは異なる経済状況を作り出してしまったと考えられます。

参考文献

小林勝(1997)、「コール政権の緊縮財政政策」、中央学院大学法学論叢 第11巻第1号、65-114頁

近藤正基(2011a)、「ヘルムート・コールの政治指導:コール政権前半期(1982~1990年)における福祉政策とその政治(1)」、季刊経済研究第33巻3・4号、大阪市立大学経済学会、79-93頁

近藤正基(2011b)、「ヘルムート・コールの政治指導:コール政権前半期(1982~1990年)における福祉政策とその政治(2・完)」、季刊経済研究第34巻1・2号、大阪市立大学経済学会、15-28頁

野口悠紀雄(2025)、『戦後日本経済史:かつて経済大国だった「日本」という国について』、東洋経済新報社

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