前回は一般理論の雇用部分の話をしましたが、他にも消費、投資、貨幣需要等についても多くの記載があります。
消費については、一般理論では所得、補足費用(資本の予測可能な自発的変化)、資本価値の意外の変化(資本の予測不可能な非自発的変化)、利子率、財政政策、現在の所得水準と将来の所得水準との間の関係の期待の変化の6つの客観的要因に依存するとし、さらに、中でも所得を最も重要な要因と考えています(このほか、8つの“主観的な要因(用心や貪欲など)”も影響するとしています)。
所得の変動と消費の変動の間を繋ぐものが、いわゆる限界消費性向ですが、この限界消費性向について、一般理論では、所得が上昇するほど、値が小さくなるとしています。そのため、乗数効果
GDPの変動=乗数×投資支出の変動、 乗数=1/(1-限界消費性向)
も影響を受けることになり、所得が大きくなると乗数は小さくなるため、投資支出の効果が低下すると考えています。
企業の投資についても、一般理論の中で記載があります。まず、一般理論の中では、企業の“生産者”と“投資家”という2つの側面について記載があります。企業の生産者としての側面というのは、保有する機械の量の変更は考えず、目標とする生産量・売上に向けて、雇用の量をどうするかを考えるというものです。対して、企業の投資家としての側面というのは、新しい機械の購入に関する判断で、この機械の投入によって、将来的にどの程度の利益をあげられるのかを考えます。
このうち、投資家としての側面について、企業は、資本の限界効率(新しい機械がもたらす予想収益率)が安全資産の利子率+借手のリスクプレミアム+貸手のリスクプレミアムを上回る場合に設備投資を行うと、一般理論では考えています。
ここで、安全資産の利子率は、仮に投資を行わず、国債などに投資を行った場合に得られる利益で、借手のリスクは、企業が、自身が行おうと考えている投資のリスクを考慮するということで、仮にリスクが高ければ、その分高リターンが望めない限り、投資を行わないというものです。貸手のリスクは、資金を貸し出す金融機関の貸し倒れリスク(債務不履行のリスク)です。
貸手のリスクは、企業が自前の資金のみによって投資を行う内部金融の場合には関係ありません。また、借手のリスクは、例えば景気悪化などでリスクが高まると、貸手のリスクも高めることになるのですが、一般理論ではこれを借手のリスクの二重計上として、それまで注目されてこなかったものの、重要だとしています。一般理論では、こうしたリスクが高まった時に、どのような政策が必要なのかについても指摘しており、借手のリスクについては景気対策が、貸手のリスクについては金融安定化政策が必要だとしています。
このほか一般理論では、企業の投資決定には、アニマルスピリット(血気)も影響を及ぼすとしていて、一般理論の第12章3節をみると、
“顕著な事実として指摘できるのは、見込み収益を予想する場合の知識の基盤が、きわめて心もとないという点だ。私たちはふつう、数年先の投資収益を左右する要因について、非常にわずかな知識しか持ち合わせておらず、事実上なにもわからないことも少なくない”
“昔は事業に乗り出した人やその友人・仲間が企業を所有しており、投資が成り立つには、事業に命を賭ける、血気盛んで建設的な衝動を持つ個人の供給が十分に必要だった。実際のところ、見込み利益を正確に計算して投資をしていたわけではないのである。”
“事業者は腕前と運を競うゲームに参加するのであり、参加者の平均実績はゲームに参加した本人にもわからない。人間がそうそのような賭けに全く魅力を感じないなら-工場・鉄道・鉱山・農場の建設に(利益以外の)満足感を覚えないなら-冷徹な計算だけでは多くの投資は期待できないのかもしれない。”
といった指摘がされています。
貨幣需要については、一般理論よりも“貨幣論”という本(この時は完全に古典派経済学の本として書いています)の方が遥かに詳しく扱われているのですが、一般理論でもある程度の記述があります。
先程、国債を安全資産として扱ってしまいましたが、一般理論のなかでは貨幣を扱う際、“安全資産としての貨幣“と”危険資産としての債券“の選択問題として捉えています。因みに、実際の世の中では、危険資産といえば債券以外にも株式や投資信託など様々あり、また、債券の中でも、国債、社債と複数の種類がありますが、そうしたケースにも適応できるとする理論を構築したのが、アメリカケインジアンのトービンで、考え方としては、危険資産しかない世の中に安全資産(貨幣)を導入すると、投資家による危険資産の選択のいかんに関わらず、危険資産の最適な組み合わせが1つに決まり、投資家は貨幣とこの最適な危険資産の組み合わせの間の選択を行えばいいというもので、”トービンの分離定理“といわれています。
その上で一般理論では、フローとして得られる所得は消費と貯蓄に分かれ、さらに貯蓄については一部を危険資産で保有し、残りを貨幣で保有すると考えます。というより、最後の部分についてより正確には、今期末の資産ストック(つまり、今期の貯蓄フローとその時点で残っている、元々保有している貯蓄のストックの合計)の中の、貨幣ストックと債券ストックの選択を行っています(これは後の、金融資産選択理論に引き継がれるものです)。
では、貨幣と債券の選択は、どのような動機で行われるのでしょうか。一般理論では、貨幣保有の動機として取引動機、予備的動機、投機的動機をあげています。取引動機というのは、モノの規則的な購入のための動機で、予備的動機は不規則な購入のための動機になります。この2つは古典派でも考えられている動機で、そのため古典派の貨幣需要関数は、
貨幣需要量=名目GDP/貨幣の所得流通速度
と書くことができます。ここで、貨幣の所得流通速度は、貨幣の回転速度のことです。つまり、貨幣は世の中を転々と流通していますが、貨幣の流通速度が遅くなると、なかなかお金が入ってこないので、これは貨幣需要が増大する方に作用しますし、逆に流通速度が速くなると、お金がどんどん入ってくる状況になるため、貨幣需要は減少します。経済学ではこの1/貨幣の所得流通速度を“マーシャルのk”と呼んでいます。
一方で、一般理論の中では、この2つに加えて投機的動機も貨幣需要動機として考えます。名前から少し混乱するところですが、この動機は、危険資産である債券の価格が将来低下しそうなのに対して、安全資産である貨幣を保有する動機になります。例をあげると、仮に現在利子率が低い状態にあるとします。この場合、債券価格は高い状態にあるのですが、投資家とすれば、これは将来債券価格はもっと下がるだろう、そしてそれは利子率の上昇に繋がるだろうと考えます。そのため、投資家は今は債券の購入は控え、貨幣を持とうと動くわけです。一般理論では、金融政策との関係を描きやすくするため、貨幣の需要関数として扱っていますが、この場合の貨幣需要関数Lは、
L=L(Y,r)
となります(L(Y,r)は、LがY(GDP)とr(利子率)の関数であるという意味です)。
では、その時に、金融政策の効果はどうなるのでしょうか。一般理論では、貨幣供給量が増加した時の波及経路を考えています。まず最初の経路としては、利子率に与える影響ですが、これには2つの経路があり、1つ目は、投機的動機のための資金量が増えるということで、債券価格の上昇、そして利子率の低下につながります。もう1つは投資家の将来の利子率の予想値に与える影響で、これが低下するようであれば、将来的に債券の価格が上昇することを予想させ、それは今債券を買っておこうということに繋がり、債券価格の上昇、利子率の低下に繋がります(一方で、逆に将来の利子率の予想値が上がる場合には、逆に作用するため、利子率の上昇に繋がります)。
こうして利子率が低下すると、これは先ほど説明した“安全資産の利子率(やや表現がこんがらがってすいません..)”の低下に繋がるため、投資需要が増加します。投資需要が増加しますと、消費のところで説明した乗数効果により、有効需要(GDP)が増加することになり、これが最終的に雇用量の増加に繋がります。
財政政策については、一般理論の中ではそれほど多くのことを書いていないのですが、それでも幾つか指摘をしています。というのも、ケインズがこの時に参考にした出来事が1930年代の大恐慌だったのですが、あれくらい経済が落ち込んだ状況下では、投資家は危険資産を持とうとはせず、中央銀行が貨幣供給量を増やしても債券購入ではなく現金保有に向かってしまう状況にあって、利子率は低下せず、また、仮に利子率が低下したとしても、そうすれば投資のところでやった“安全資産の利子率”は下がるのですが、そもそも資本の限界効率(新しい機械がもたらす予想収益率)がものすごく下がっているため投資需要に繋がりません。
こうしたことから、ケインズは財政政策を重要視しています。中でも重要と語っているのが、直接的に雇用につながる公共事業の拡大です。それこそ古典派経済学では、官は非効率、民は効率という経済観を持っているため、政府によって決められる公共事業は無駄と決めつけていましたが、ケインズにしてみれば、“失業している労働者、遊休している資本”が無駄だというわけです。たとえ道路に穴を掘って、それを埋めるという公共事業であっても、それでも“ないよりはまし”といいますか、失業や遊休資本という“無駄”の解消に繋がるわけです。
この他、ケインズやケインジアンの方々は、様々なところで財政政策・金融政策について指摘をし、“需要がそれ自身の供給を生み出す”とする有効需要の原理を唱えていますが、実はそのスタンスには人によって微妙に違いがあります。例えばケインズ自身についてはこれは景気循環の調整程度の役割として考えていました。一方で、ケインジアンとして有名なラーナ-やハンセンは、より積極的な財政拡張を唱えていました。例えばラーナーの発言をみてみると、政府のとるべき政策として、政府債務の規模は気にする必要はなく、必要であれば国債を発行するか貨幣を追加発行すればよいとし、課税については、あくまでインフレーション抑制のための手段としています。また、政府債務がどれだけ⼤きくても政府が破産することはないとしています。さらにハンセンの主張の中には(Hansen(1941))、
「わが国の経済に先例を⾒ない⼀つの重要な構造的変化について今や⾔及しなければならない。過ぎ去った世紀においてはいつも、経済拡張は、ただ技術の進歩からくる内充的投資ばかりでなく、新領⼟の占領とか⼈⼝の増加とかいう外延的な成⻑をも基礎としていた。・・・ヨーロッパ諸国の新領⼟への発展(移⺠とか資本輸出での形での)は第⼀次世界⼤戦となって急に⽌まった。・・・合衆国においては、広漠たる⻄部地⽅への発展のあと更に数⼗年にわたって都市発達の時代がつづき、それから初めて⼤規模に(資本輸出を通して)未開発諸国に⽬を転じたのであった。しかしこの時代も⼤不況にいたって終わりをつげた。」
「前世紀の起動的経済では主として技術の進歩と外延的成⻑とによってもたらされた投資への誘因は、将来においては、その発動の源を、技術の進歩と著しく拡⼤された公共的消費ないしは投資の計画のうちに⾒出すことであろう。」
といっています。
さて、こうしたケインズ主義的な政策は一世を風靡し、大体1970年位まではうまく働いたのですが、なぜそこまで流行ったのかというと、1つの側面として、当時の供給側の圧倒的な成長力というのもありました。歴史家のゴードンは、“アメリカ経済 成長の終焉”という本の中で、1870年~1970年の100年間は、電気や内焼エンジン、上下水道の発達や寿命の上昇といったことなどから、経済が大きく成長した“特別な世紀”であるとしています。
要するに、19世紀の終わりごろに起こった爆発的な産業革命は、100年近く継続するほどの力があったのです。だからこそ、有効需要を創出し、雇用を完全雇用に近づけさえすれば、欲しいものがどんどん生まれるし、世の中も生まれ変わる、それこそ自分の子供が社会に出る頃には、親が社会に出た時よりも2倍は豊かになっている、それを地でいくようなポテンシャルを持っていたわけで、そこに経済の需要側をふかしていくような政策が加わったことで、良い相互作用が生まれていたと考えられます。
ただ、そんな時代も1970年代に入ると終わりを迎え、世界は新しいフェーズに入ります。次回はこの70年以前の供給側の話や、70年代あたりの経済環境の話を中心に整理してみたいと思います。
参考文献
ゴードン・ロバート・J(高遠裕子・山岡由美 訳)(2018)、『アメリカ経済 成長の終焉 上・下』、日経BP社
Hansen, A. H. (1941). Fiscal Policy and Business Cycles, W.W Norton and Co.
Keynes, John Maynard(1936).The General Theory of Employment, Interest and Money. London :Macmillan.
コメントを残す